1級建築士事務所 もくもくSTUDIO

対談 talk

建て主に聞くもくもくstudio石井啓介 家づくりを楽しむーライフスタイルを大事にした住まい / N夫妻 新しい事業に挑戦する地域をひらくショップづくり/ 港南台タウンカフェ (株)イータウン 斉藤保氏
対談

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若かったあの頃・・・バベルとビートルズと音楽と・・・

・・・70年代に音楽を通じてひょんな事から知りあった仲間。学校や仕事場で一緒だったことは、一度もなく、きっかけが何だったかもわからない間柄だったが、駒沢の近くにボロアパートを借りて、何人かが住み、バベルと呼んで、たまり場をつくり、興味のあるテーマで、「ゼミ」のようなものや「イベント」をしたりしていた。まったく出入り自由で、誰が来てもよかった。その後、互いに家庭をもち、子どもが生まれても、連絡のつく仲間と数年に1度ぐらいは会っていたが、仲間のひとりが建て主となり、ひとりが設計者となって、ひとつの家が完成した。

斉藤:

設計者の石井さんとN夫妻は、どういうお知り合いですか?

N夫:

長くなるんで手短に言うと、1960年代の中頃、藤田組という大手建設会社が若い人の意見を汲みたいっていうんで、「学生重役」というのを募集したんですね。それで応募して当選した人たちがその後就職するのも面白くないっていうんで、3人で藤田組の近くにプレハブ小屋を借りて、「パンデコン」ていう事務所を作ったんですね。
その3人っていうのは、ひとりは建築家で、ひとりが映像作家で、ひとりが今でいうフリーの編集者ですね。ボクはね、ひょんなことから中学3年生のころからその事務所に出入りしていたんです。そして、その事務所もそれだけじゃ食えないんで、3人が専門学校の講師もしてたんですよ。すると専門学校の生徒たちもその事務所に出入りするようになって・・・ボクも大学生になり、専門学校の人たちとも知り合いになった。
その3人のうちの誰かの奥さんが子ども相手のフリーのイベントをやっていて、(銀座の)歩行者天国で風船(を使った)イベントに、独身時代の私たちや石井君の同級生のA君なんかがどういう関係か知らないけど来ていて、それからいろいろ集まるようになり、こんな毎週集まるのに喫茶店でお金払うのももったいないから、このお金を家賃にすればいいんじゃないかっていうことになり、ボクはあまり出さなかったけど、駒沢公園の近くにみんなでボロアパート借りたんです。
そこに住んでいたのが後の乱歩賞作家井上君、そして彼とバンドを組んでいたY君(現在、大井町で碁会所を経営)、後の井上君の奥さんになるYさんだったんです。そこを借りた時になんか名前をつけようということで「バベル」という名前をつけたんだよね。
3部屋あって、僕たちが行ってだべったりしてた。共通は、音楽が好きということで、ビートルズ・ファンだったり、当時フォークブームで、フォークソングというのが出てきた頃だった。たまに、それぞれの学生なりの専門知識を活かして、ビートルズの好きなヤツは、ビートルズの講義をしたりとかね(ビートルズセミナー)、講義というほどのものじゃないけど仲間内のゼミみたいのをやったり、最後が銀座のガスホールのコンサートですよ。
リーダーもなにもないですよ。誰が来てもよかったということで、そこへA君つながりで、石井君も来るようになったし、全然知らない人が顔見知りになったりして、あれから、35、6年経つけれどもその中の何人かは、今もって、こういうつながりがあるというわけなんです。

N妻:

そこの「バベル」で、中学時代テニスでペアを組んでいた友人にも出会ったりするんですよね・・・不思議。

斉藤:

クローズされた仲間内だけの話では、ないんですね。

N夫:

中学や高校の同級生とかに比べると一緒にいた時間はそんなに多くないですよ。だけど、それぞれ独身でつきあっていたころから知っていて、今もってその付き合いが続いているということです。

斉藤:

いまでいうコミュニティカフェですね。

N妻:

そうかもしれない。場が必要ということは、あったから。

石井.:

当時喫茶店ばやりで、それは、コーヒーにお金を出しているんでなくて、場所代だよねという発想があって、それでさっきのみんなで借りるアパートの話になった。ボクと大学で同級生だったA君は、そのころ子どもの遊びのことやっていてその関係でイベントにも参加したんだね。
あの頃は、「ひきこもり」の逆で、つまり何かを「発信」しないと存在感が無くなる。「とにかく表に出て、表現する」というのがあたりまえだった時代が僕らの学生の頃だった。(学生運動、ヒッピー、歩行者天国、ハプニングetc)よっぽどアピールしないと存在感がなく、自由だけどもいろんな表現が要求された。

N妻:

話すの好きだったのね。今の人たちみたいに「思っていることいえない」なんて、ありえない。(どこに住んでいて、どこの学校なんて関係なくって・・・)ここに話題があったら、みんなでそれについて、わっーてしゃべりまくって、帰りたければ、帰っちゃうし、遅れてくる人も関係ないし、何時に集まれもない。

N夫:

もちろんゼミなんかは、何時からというのがあるけれど、遅れようがなにしようがそんなことは、誰もなにもいわない。(寝ててもかまわない。)
(I夫婦に子どもができ、だんだん、間遠になってきたが、二子玉川の井上家のアパートを足場に、1年に1回の多摩川の花火大会を見に集まるのがI家、N夫妻、石井家の恒例行事になった。
その後、井上氏は、共同執筆者と岡嶋二人というペンネームで江戸川乱歩賞を受賞する。(現在は、コンビを解消し、井上夢人として活躍する推理作家)

石井.:

それからしばらくして、井上君から家を建てようと思うんだよねという話があって、いろいろ話しこんでいた。ある時、伊豆にいい土地を見つけたからって、ボクに見てくれというから彼ら一家と行くんだけどボクは、バツを出したんだよね。彼らがっかりしちゃって。

N夫:

それは、なぜ?

石井.:

敷地の条件が良くなくて。でも、それからあんまり時間がたたないうちに八ヶ岳の候補地が出てきて、じゃあ見に行こうと、そして、いいんじゃないかということで、ボクが設計させてもらうことになるんだけど。
そうしているうちに97年にですね、N夫妻から連絡があったんですよ。「設計事務所ってどういう事をするのが設計事務所?」って。そして、ここからが結構大事なとこなんだけど、いよいよスタートということになるわけで・・・。

斉藤:

つまり、それが、この家を建てるのを前提にしての話ということですか?

N夫:

そうです。八ヶ岳の井上君の家にも行ったことがあるんで、その頃、ボクも30代でサラリーマンやめて、独立してフリーになってたし、別にどこに居ようが構わないんで、家内とこんなとこで暮らせたらいいねとは、話してて、1次募集で井上君は建てたけど、県の第2次か第3次の募集で(僕たち)はずれちゃって、それで、井上君の隣組になることは、すっかりあきらめていた。

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